なんで評価が好きなのか、分かった
最初に何かを評価したのは小学4年生の頃。当時マイコンと呼ばれていた、8ビットパソコンのカタログを集め始めた時。
最優秀はソニーのSMC777。MSX部門では、日立の・・・なんだったかな、持ち運ぶための取っ手がついたH1だかH2だかいうマシンを最優秀とした。
良いパソコン悪いパソコン。間違いだらけのクルマ選び。そういうものを読みながら、プロの価値観に対してさえもジャッジした。
なるほどそうなの。でもそれは間違ってるよ。理由は、僕がそう思わないから、と。
嫌なガキだw
私はずっと、自分の価値観に自信を持ちつつ、自分の存在へは不安を抱えていた。歪んだ自己愛により、他者との関係を構築できなかったから。
当たり前だ。他人の価値観を小馬鹿にするデブと、友達になりたい奴はいないだろう。
なんで自分は孤独なのか分からない。それが、20年続いた。
新台レポートにせよ、イマルネットでのバトルにせよ、ブログ炎上の日々にせよ、私はずっと、自身の価値観を世に問いたかったのだ。
その本質は、現実とのズレを容認できない、他者の価値観を許せぬ子供じみた自己愛にある。根本は10歳から変わっていなかったのだろう。
私にとって評価することは、すなわち、自身の価値観を補強し、脆弱な精神を支える行動だったのだ。間違ってない、自分は間違っていないのだと。
肥大した自己愛と直結しているのだから、そりゃ好きになるよね。
ただ、ここ数ヶ月。パチンコ台への評価は、明らかに変わってきている。楽しさを追い始めた。面白さの仕組みに感動するようになった。
現実と折り合いを付けられたのかは分からないけれど、最も大好きなパチンコとの関係が変化した以上、他のことへも波及していくだろう。
自身と現実のズレが許せない。その怒りがボンペイ吉田を生み、新台レポートを生み、ブログ、セミナー、ミステリーショッパーを続ける原動力となった。
私はこれからも怒り続けるのだろうか。それとも現実に対して何かしらの折り合いを付けるのだろうか。それはまだ分からないけれど、眠くなったので寝る。
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