同僚をいじめていた教員の言葉と「生け贄」
謝罪文の文面に、薄ら寒くなるやばさを感じる。「被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです。自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです。どうなっているのかと、ずっと思っています。」https://t.co/MFYvDqZ8FX
— Noriaki Yoshikawa (@yoshikawanori) October 16, 2019
やっぱり「いじめ」という言葉が犯罪を矮小化してる。さっさと刑事事件にして法の下で裁けよと思う。
でもってこの事件で怖いのは、加害教諭らの評判は悪くなかったという点。社会的でコミュニケーション能力のある人達だからこそ、こんな薄ら寒い謝罪の言葉も簡単に出てくる。
優秀な人達による「いじめ」だとするなら、今回の事件に限らず、以下のような構図となる可能性もある。
被害教諭→生徒の学力を上げられず保護者から不人気
加害教諭→何人も有名大学へ送り込み保護者から人気
という形であるなら、「それでも加害教諭を選ぶ保護者」は出てくるんじゃなかろうか。生徒に対して暴行するわけじゃないのだから、被害教諭は優秀な加害教諭の生け贄になれという構図。
マスコミを通じて可視化されたから問題となっただけで、狭い社会の中では生け贄の存在は肯定されがちなのではないか?
ディスカッション
コメント一覧
統治方法としては定番かつ定石ですよね「生け贄」の存在って
でも人としては、それに手を染めるのはやっぱり間違いだと思いますわ
その存在を無くすには、人類はまだまだ進歩や進化が足りないんじゃないかなと
賛成する保護者はいるだろうなと容易に想像できてしまうあたり絶望しかない(‘A`)