無才の才

お仕事

中二病というか何というか。私は中学高校、いや、大学の途中くらいまで、ひょっとしたら今でも、「自分は何らかの隠された才能を持っているんじゃないか?」と、図々しくも思っていたりする。

笑う人もいるだろうけど、才能ってのはどこに隠されてるか分からないじゃん。これを読んでるあなただって、ちょっとテニスラケットを握ってみたり、小説を書いてみたら、大衆の耳目を集めるようなパフォーマンスを発揮するかもしれない。

私には無理? いやいや、やってないだけでしょ。才能の有無は好き嫌いじゃないから。イチローは野球嫌いだと公言してるし、石井一久も「金儲け出来るからやってるだけ」と言ってる。でも彼らは、好き嫌いを別として、努力で大輪の花を咲かせた。努力で人並みの壁を突き抜ける才能を持っていた。

「才能をいち早く発見するテクノロジー」なんてあったら、地球上全体で生産力は上がるよね。無駄を排除できる。才能を発揮できる場所へ天才を配置できるから(これまた好き嫌いは置いといて)

 

でだ。
どこに転がってるか分からない才能を探し、この分野では才能ないなと確認し、次へ移る。この作業は思いのほか愉快だ。

なぜなら、才能はないと自覚しても、楽しいから続けたい物へ出会えるから。私の場合、ブログであり、新台レポートであり、ゴルフだね。

大きな才能はない。だけど、欠片は意外と転がっている。才能の欠片とは、すなわち「楽しめるかどうか」ですよ。本物の才能は、その大きさゆえに周囲の目を集め、道を強いられ、苦痛となるけど、欠片なら我が道を行くだけだ。

石川遼の悩める表情を見てると感じたりするじゃん。あれだけの才能を持ってしても、あの表情かと。「才能ゆえの苦悩」と言うけれど、見てる方はそれでも、先へ進めと願うワケじゃん。君ならできると、いささか無責任な言葉を載せて。

 

才能はない。されど楽しめる。これぞ才能の欠片、無才の才だ。

 

楽しもう。才能の欠片を使って人生を楽しもう。欠片を集めて仕事としよう。同じ欠片を持つ者同士で共鳴し、大きなものを作ろう。天才を屈服させることも可能だし、天才と共に同じ道を進むことだって可能だ。

まずは、無才を自覚すること。欠片を見つけること。それを表明し、友を作ること。あるいは仕事として社会に居場所を得ること。

才能の差とは冷酷で、残酷で、辛いばかりだけれども、時にエキセントリックで、変化に溢れ、微笑んでくれる。まずは欠片を探すこと。

 

「ゆうしゃよ さいのうのかけらを さがすのだ!」

 

てな感じで。中二病的に。

 

 

お仕事

Posted by ボンペイ吉田